田畑書道教室の指導方針

田畑書道教室の主宰者、在野の書家、書法研究家の田畑明彦(たばたあきひこ)と申します。(プロフィールはこちら)

鹿児島を拠点に対面・通信の書の指導を行っておりますが、この教室はひとことで言いますと、

ちょっと変わった書道教室

です。

一般的に習字・書道教室というのは競書誌を中心に行いますが、

私の指導方法は個別に教材を作って、あなたに合う、なるべく希望に沿った指導をいたします。(そのため教材クリエイターとも名乗っております。)

以下に指導方針をお示しします。

あなたの水準に合った個別の書の指導をいたします。

書は生涯学習とよく言われますが、一生涯かけて学ぶことができ、そして人生経験があるほどに良い字が書けるようになるものです。

ただしそれは正しい努力をした場合とも言えます。

私は書法研究家を名乗っておりますが、書の歴史を学んだ末の理論に裏打ちされた「正しい書の努力の方法」を他の書道家では言えない事までお伝えできる自信があります。

美しく書くテクニックだけではなく教養・学問としての書を伝授します。

例えば「結体は時代とともに移り変わっても、用筆は千年変わらない。」という言葉をご存知でしょうか?

これは筆で書く「書」の極意・本質を言ったものですが、書に関するいろんな書物には結局こういった事に帰結します。

いつの頃からか、学校の書写の教科書には重大な本質が消えているようです。まずはこの事から徹底的にお伝えします。

また「晋人は韻を、唐人は法を、宋人は意を尚(たっと)ぶ」と古来から言われています。

これは書の真髄を得るための正しい努力をするための羅針盤だと私は思っているのですが、こういった事を今まで聞いたこと、書道の先生から聞いたことがあるでしょうか?

私は「書道」とカンタンに言うけれど「書は学問」だと思っています。

美しく書く技術・テクニックはもちろんですが、ただの意志伝達の記号である文字を芸術まで昇華した中国の書法理論をかみ砕いて分かり易くお伝えします。

テクニックと教養の2つが同居してこそ、あなただけが書ける良い書が成せると考えており、それに特化させた指導を行います。

【6書体すべて指導いたします】篆・隷・草・楷・行・仮名、さらに漢詩・和歌の指導もいたします。

今の書道業界は各書体に習熟する方向性のようですが、なぜかその書体のみの世界だけに終始しているように感じています。

6書体はすべてが連動して繋がっていて、デザイナーがデザインしたただのフォントではありません。

それは先に述べた「用筆は千年変わらない」にも通じてきますし、これらを横断的に学ぶ必要性があると思います。ただ一つの書体のみに習熟して終わるのは本当にもったいないと思います。

私は篆書・隷書・草書・楷書・行書・仮名の6書体にある程度精通しております。別に各書体すべてを展覧会レベルで書ける必要はなく、その価値もないと私は考えております。

大切なことは歴史の必要性から各書体が発生したことを知ったうえで、その流れを感じ取ることが大切です。

・篆書の筆法

・隷書の情趣

・草書の筆勢

の3つを理解することが本当に肝要であり、仮名も含めた楷書・行書で書き表す日本語を美しく書くためには必須と私は考えます。

また漢詩の作り方や和歌のあらゆる知識を知ることも書をやる上では大切です。

そういった知識もまた一つの学問の世界がありますが、すべてを網羅する必要はありません。

かといって何も知らないのは「ただの字書き」に成り下がってしまいます。

そんな事にならないように、ある程度の漢詩・和歌の素養もお伝えしていきます。

何のために書を習うのか?学ぶのか?

それはやはり日常的な日本語を綺麗に書く方法に尽きると思います。

その中でもボールペン・万年筆や筆ペンで美しく書く方法が大切と思っています。

私は日々そのような視点・考えで書を追究しており、そういった前提での指導をいたします。

【級・段位はあくまで方便】競書誌の強制はいたしません。

それから競書誌での級位・段位の強制もこちらからはいたしません。

現在私の教室では、

「月刊水明:水明書道会(京都)」

「書林:南日本書道会(鹿児島)」

「日本習字:(財)日本習字教育財団」

の3つを横断的に、生徒さんごとにご紹介して指導を行ってはおりますが、基本的に希望がない限りはこちらから強制はいたしません。

私の考えではありますが、段位などは所詮方便に過ぎないと考えています。

競書という言葉自体に私は疑問を感じていますが、書で競うなどというのは、書は人なりということもあって人に序列をつけるという事自体がナンセンスと考えており、大した価値なんて無いと考えます。

しかもそれがそのまま人の評価となりがちですし、後から述べる書道展の在り方でもそうですが、それに腐心してほしくないというのが私の考えです。

もちろん子どもの頃は動機付け・モチベーションのためにするのも良いかもしれませんが、それでも行き過ぎた賞罰教育というのはこれからの時代は考えていくべきと感じます。(ちなみに3つの中で日本習字さんが唯一生徒の序列を付けないシステムです。)

ましてや大人になってからの書による序列なんてものは、差があってないようなものなのに…と思います。

上手は下手の手本、下手は上手の手本という言葉もあるように、ランキングに意味など無いと考えます。

【書道展の在り方に疑問】書道展への出品の強制もいたしません。

それから書道展への出品の強制もいたしません。

私は戦後からの書道展の在り方にも非常に疑問を感じております。

先にも述べたように、競書なんてものがナンセンスであり、序列に価値なんて無いと思っています。

人には承認欲求という非常に強力な欲望が備わっています。私自身もその欲求は強いですし気持ちは非常に分かるのですが、こと書に関してはそれに腐心するほど自分の書が悪くなっていく…と考えています。

賞なんて二の次三の次で出品するというなら良いとは思いますが、畳ほどもある巨大な紙に大きな字を書くことは一見立派な事に見えますが、でもそれを一応人前に出せるようになるのに人生の大半を費やすほどの労力が必要ですし、そこまでして書いても、所詮は大道芸なのでは?と感じます。

でもそういった事を否定するつもりはありません。私自身も書道展で「大きく書くために培った章法の感覚」というのは非常に良い経験にはなりました。ですが賞欲しさに・承認欲求のために生涯かけてやる必要は私は無いと考えます。

そういうのが好きな方は…私には何の権力もありませんのでここで回れ右でお願いいたします。

それよりも机上での細字のテクニックを磨く方が良いですし、その世界の方がよほど平和です。

一つの実状として私はお寺や神社で御朱印を書いていますが、そこで求められるのは細字を能く書く力です。

ましてや展覧会で書く字に関しても、(いい加減日本人なのに)中国人気取りの漢文漢詩か平安宮廷の和歌仮名の模倣に終始しています。

私自身も今まではそうするのが当たり前で思考停止でやってきましたが、いろいろと経験を積むうちに非常に疑問に感じてきました。

今の日本の書道展覧会は戦前からこのようになったとは聞いております。戦後70年以上経ちますが、守破離という言葉の「守」という伝統保守ばかりがもてはやされる今の体質からは、私はある程度距離を置きたい人間です。(もっとも「守」自体が出来ているかすら甚だ疑問ですが。)

そんな事よりも横断的に書の歴史・技術を識った上で日本語として古典になりうるかもしれない新しいものに挑戦していきたいと考えております。

【技能検定】硬筆・毛筆書写技能検定の指導も行っていきます。

競書や書道展に重きは置きませんが、

準国家資格とも言える、

文部科学省後援の硬筆・毛筆書写技能検定

の指導は徹底的に行っていこうと思っております。

この資格は英語検定(英検)や漢字検定(漢検)の書道版ともいう資格です。

現在の私は2級を保持しておりますが、1級取得を進めながら、履歴書の資格欄にも書くことのできる技能検定の資格のための指導というのは積極的に行っていこうと考えております。

技能検定のバイブルは教養としての書として学ぶにもうってつけです。

実技は当然のこととして、同じぐらい知識や教養も無いと合格できません。

例えば「いろは歌」がありますが、この歌の最後の文字は何だかご存知でしょうか?

答えは京都の「京」という文字です。「京」の一文字で「かなどめ」と名字で読むのだそうです。

こういった教養を含めた書に関する指導法を同時に学ぶことができるこの資格は、全国各地の書道団体の師範資格よりも一線を画す資格であると思います。

この資格取得のための指導も行っていきます。

どこに属するかよりも誰に習うか?さらにそれよりも何を習っていくか?が重要

すでにここまでで普通に書道をやっている人間ではない…とお気づきかもしれませんが、私も自分自身を「異端」だったり「在野の書家」だと自覚はしています。

私は現在はもう特定の先生についてはいません。

ではどうしているか?と言いますと、ただひたすらに古典を観て、研究しています。それも唐の時代よりも昔の古典を、です。

私の持論ですが、書をやっている人・書家のレベルを計るにあたってはどの古典をやっているか?(やってないは論外)やり続けているか?でおおよそ把握できると考えています。ぶっちゃけやっている古典のレベルで先生の実力は知れてしまうし、字を見れば分かってしまうと思います。

書道の世界が他とは特別に違うのは、過去に最高レベルに到達している記録がある、ということだと思います。

その最高レベルのものの中で自分の嗜好に合うものを選びとり、現代の実用に堪(た)えつつ個の発露を芸術の域にまで昇華させる道が書の道であると私は考えています。

自分の書風を確立するためには自己流なんて必要なく、古典研究をしなければ一生を棒に振るとすら思います。

医者や弁護士・税理士などにも同じことが言えますが、常に学び続けなければならない。師匠は弟子の10倍努力しろという人がいましたが、本当にその通りだと思います。

そうなるとどこに属するかは必要なくて、誰に習い学ぶか?がとても重要で、私の場合は自分の嗜好に合う古典からどう学ぶか?という、言ってみれば歴代の天才書家たちに学んでいます。

端的に言うと、どこまで古典を理解できたか?がその人の書のレベル、到達できたレベルになると思います。

ですがいきなり古典をやりなさいと言われても1,000年以上も昔のしかも石に掘られたものが多いため習いにくい学びにくいのは事実です。

しかしそこが書道家の一番の腕の見せ所、一番の仕事であると思います。

難解な古典を現代人にどうやって分かり易く習いやすく指導するか?が令和に生きる現代書道家に課せられた使命だと思います。

なので私は、最終的に一人で古典を学んでいけるような指導を行っていきます。

書の道は一生涯続けられるものですし、一生続けられる方法をお伝えしていきます。

ちょっと風変わりな者が運営する変わった教室ですが…

以上長々と私の書に対する考えや指導方針をお示ししてきましたが、こういった事をベースに書の指導をしていきます。

マニアックかもしれませんが、書は学問である以上、ただ単純に表面的に綺麗な字を書けるだけに終わってほしくないというのが私の考えの根幹にあります。

教室での指導中、字の成り立ちやいろんな「いわれ」について脱線することが多いのですが、でもそんな話がすごく役に立って為になります、と生徒の方によく言われます。

字を書くテクニックも深く、同時に文字の知識や教養としても幅広く指導させていただきます。

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